六話 そんなとこで裸になってたら倒錯の世界に入っちゃう。
ー/ー「チキンだなぁイツローくんは。もしかして、童貞?」
つまらなさそうにTシャツをかぶりながら、すみれ先生はさらっと失礼なことを聞く。大きなお世話だ、と思いつつも逸郎は正直に答えた。
「似たようなもんです」
意外な答えだったのだろうか。白いTシャツから亀のように首だけ出したすみれ先生は、え、という顔をしていた。それって、という言葉を彼女の口が発する前に、逸郎は言葉を繋いだ。
「あまり思いだしたくない経験がひとつだけあった、ということです」
そっかぁ、とだけつぶやき、少しだけ黙り込んだすみれ先生は、表情を元に戻し、明るい声でこう言った。
「あのさ、イツローくん。ふたりでいる時は、私のこと『先生』って呼ぶの、やめよ。すみれ、とか、すみれちゃん、とか。なんならなにかオリジナルな呼び名でもいい。とにかく、先生では無くてそういうのにしてくれるかな? 私もイツローって呼ぶから。ね」
少し迷った顔をした逸郎は、伺うような様子で聞いてみる。
「すみれさん、でもいいですか」
しょうがない、よしとしといてやろう、と応えたすみれは苦笑いをして、テーブルの上に積んだカタログの束を崩して広げた。
「それじゃイツロー、ここから未来の愛馬を一緒に探すよ」
すみれが乗りたいと選んだのはSUZUKIのV-Strom250だった。
「もうこれ一択だね。エンジンとか馬力とかどうでもいい。この赤黒に一目惚れしちゃった」
オフロード車に見紛う細身の車体に尖ったフロントフェンダーと大きな丸形ヘッドライト。その上に小型のウィンドシールドが付いている。シャープなスタイルのオンロードバイクだ。
「こりゃかっこいい。なんかヒーローものにでも出てきそう。この赤黒ツートーンならすみれさんの赤ヘル黒ツナギとばっちり合いますよ」
すみれはその感想に満足げに胸を張った。
「で、イツローはどれがいいの?」
「俺はやっぱりアメリカンタイプがいいですね。早く走るよりも長く走る方が性に合ってそうで。ここのカタログには無かったけど、一番好きなのはSUZUKIのSavageですかね。ほら、これです」
逸郎はスマホの検索でヒットした中古バイク市場サイトの画面をすみれに見せた。
「おお、これはまたシンプルで、なかなかいいね。あ、このバイクはもう新車はつくってないのね」
「中古市場を探すしかないですね。そうするとやっぱり一期一会になっちゃうのかな」
「ねえイツロー」
バイク選びもひと段落し、すみれの淹れたドリップコーヒーを相伴するブレイクタイムで、すみれが自信なさげに口を開いた。
「今はまだ早いけど、例えばさ、ふたりともの教習に目途とかがついてきたりしたら……」
話の途中で口籠ったすみれは、深呼吸ひとつして、言葉を繋いだ。
「私と一緒に、バイク屋さん見に行かない? ……嫌じゃなかったら」
消え入りそうになった語尾に被さるように逸郎が応えた。
「喜んで!」
返事を聞いて顔を上げたすみれの頬に真夏の残照が映った。頬が紅いのはきっと夕陽のせい。逸郎はそう思うことにした。
スーツに着替えるすみれを廊下で待っているうちに、外はすっかり暗くなっていた。
「遅くまで付き合わせちゃってごめんね」
ドアに施錠して振り返ったすみれは、片目を瞑って手を合わせる。逸郎はかぶりを振る。
「思ってたより早かったですよ、着替えるの。もっと掛かるかと覚悟してた」
「ツナギ脱いでスーツ着るだけだから、すぐよ」
「え。水着は……」
「もぉ、何聞いてんのよ。イツローのエッチ。仮にもここは研究室よ。水着はいまもそのままだよ。見る?」
そう言ってお尻を突き出し、スカートの裾を上げて見せようとするすみれを逸郎は慌てて止めた。
「な、なにやってんですか。それこそここは研究棟の中ですよ。誰が見てるのかわからないのにそんな危ないこと…」
「じゃどこでならいいの?」
「いや、それは……」
しどろもどろになるイツローの背中をパンと叩いて、なぁんてね、と笑うすみれ。ふたりだけだとスーツ姿でも元気で明るい。
並んで裏門を出たふたりは夜道を行く。この辺りは街灯が少ない。
「すみれさんは家は?」
「私は材木町。イツローは今日もアルバイト?」
「いや、今日は休みです」
「え、イツローの部屋、高松って言ってたよね。逆方向じゃない」
「や、駅ビルにちょっと用があって。夏の短期留学に行く奴が明日出発で、なんか餞別でも選ぼうかと」
「なぁんだ。もう少し私と一緒にいたいからじゃないんだ」
拗ねた顔をしてみせるすみれに大慌てでそんなことはないと言い訳する逸郎。もちろん遊ばれているだけである。
「イツロー、おもしろーい」
旧きを温め新しきを知る。そんな雰囲気が漂う石畳の通りで、すみれは逸郎に尋ねた。
「ね。その留学生する子って男の子? 女の子?」
「女子です」
「やっぱりねぇ。あ、もしかして、彼女とか?」
「違いますよ。そんなのいませんって。明日出発するのはサークルの同期」
そっか、いないのか、と呟くすみれ。逸郎には聴こえていない。すみれの部屋はすぐそこだ。
「じゃ、ここで」
「あの、すみれさん」
ふたり同時に声を発した。お先にどぞ、とすみれが手を差し出し、それじゃ、と逸郎も応じる。
「あの、もしよかったら、餞別一緒に選んでもらってもいいですか。いや、お忙しいようなら断ってくれても…」
「行く。行きます」
今度はすみれが即答する番だったようだ。
つまらなさそうにTシャツをかぶりながら、すみれ先生はさらっと失礼なことを聞く。大きなお世話だ、と思いつつも逸郎は正直に答えた。
「似たようなもんです」
意外な答えだったのだろうか。白いTシャツから亀のように首だけ出したすみれ先生は、え、という顔をしていた。それって、という言葉を彼女の口が発する前に、逸郎は言葉を繋いだ。
「あまり思いだしたくない経験がひとつだけあった、ということです」
そっかぁ、とだけつぶやき、少しだけ黙り込んだすみれ先生は、表情を元に戻し、明るい声でこう言った。
「あのさ、イツローくん。ふたりでいる時は、私のこと『先生』って呼ぶの、やめよ。すみれ、とか、すみれちゃん、とか。なんならなにかオリジナルな呼び名でもいい。とにかく、先生では無くてそういうのにしてくれるかな? 私もイツローって呼ぶから。ね」
少し迷った顔をした逸郎は、伺うような様子で聞いてみる。
「すみれさん、でもいいですか」
しょうがない、よしとしといてやろう、と応えたすみれは苦笑いをして、テーブルの上に積んだカタログの束を崩して広げた。
「それじゃイツロー、ここから未来の愛馬を一緒に探すよ」
すみれが乗りたいと選んだのはSUZUKIのV-Strom250だった。
「もうこれ一択だね。エンジンとか馬力とかどうでもいい。この赤黒に一目惚れしちゃった」
オフロード車に見紛う細身の車体に尖ったフロントフェンダーと大きな丸形ヘッドライト。その上に小型のウィンドシールドが付いている。シャープなスタイルのオンロードバイクだ。
「こりゃかっこいい。なんかヒーローものにでも出てきそう。この赤黒ツートーンならすみれさんの赤ヘル黒ツナギとばっちり合いますよ」
すみれはその感想に満足げに胸を張った。
「で、イツローはどれがいいの?」
「俺はやっぱりアメリカンタイプがいいですね。早く走るよりも長く走る方が性に合ってそうで。ここのカタログには無かったけど、一番好きなのはSUZUKIのSavageですかね。ほら、これです」
逸郎はスマホの検索でヒットした中古バイク市場サイトの画面をすみれに見せた。
「おお、これはまたシンプルで、なかなかいいね。あ、このバイクはもう新車はつくってないのね」
「中古市場を探すしかないですね。そうするとやっぱり一期一会になっちゃうのかな」
「ねえイツロー」
バイク選びもひと段落し、すみれの淹れたドリップコーヒーを相伴するブレイクタイムで、すみれが自信なさげに口を開いた。
「今はまだ早いけど、例えばさ、ふたりともの教習に目途とかがついてきたりしたら……」
話の途中で口籠ったすみれは、深呼吸ひとつして、言葉を繋いだ。
「私と一緒に、バイク屋さん見に行かない? ……嫌じゃなかったら」
消え入りそうになった語尾に被さるように逸郎が応えた。
「喜んで!」
返事を聞いて顔を上げたすみれの頬に真夏の残照が映った。頬が紅いのはきっと夕陽のせい。逸郎はそう思うことにした。
スーツに着替えるすみれを廊下で待っているうちに、外はすっかり暗くなっていた。
「遅くまで付き合わせちゃってごめんね」
ドアに施錠して振り返ったすみれは、片目を瞑って手を合わせる。逸郎はかぶりを振る。
「思ってたより早かったですよ、着替えるの。もっと掛かるかと覚悟してた」
「ツナギ脱いでスーツ着るだけだから、すぐよ」
「え。水着は……」
「もぉ、何聞いてんのよ。イツローのエッチ。仮にもここは研究室よ。水着はいまもそのままだよ。見る?」
そう言ってお尻を突き出し、スカートの裾を上げて見せようとするすみれを逸郎は慌てて止めた。
「な、なにやってんですか。それこそここは研究棟の中ですよ。誰が見てるのかわからないのにそんな危ないこと…」
「じゃどこでならいいの?」
「いや、それは……」
しどろもどろになるイツローの背中をパンと叩いて、なぁんてね、と笑うすみれ。ふたりだけだとスーツ姿でも元気で明るい。
並んで裏門を出たふたりは夜道を行く。この辺りは街灯が少ない。
「すみれさんは家は?」
「私は材木町。イツローは今日もアルバイト?」
「いや、今日は休みです」
「え、イツローの部屋、高松って言ってたよね。逆方向じゃない」
「や、駅ビルにちょっと用があって。夏の短期留学に行く奴が明日出発で、なんか餞別でも選ぼうかと」
「なぁんだ。もう少し私と一緒にいたいからじゃないんだ」
拗ねた顔をしてみせるすみれに大慌てでそんなことはないと言い訳する逸郎。もちろん遊ばれているだけである。
「イツロー、おもしろーい」
旧きを温め新しきを知る。そんな雰囲気が漂う石畳の通りで、すみれは逸郎に尋ねた。
「ね。その留学生する子って男の子? 女の子?」
「女子です」
「やっぱりねぇ。あ、もしかして、彼女とか?」
「違いますよ。そんなのいませんって。明日出発するのはサークルの同期」
そっか、いないのか、と呟くすみれ。逸郎には聴こえていない。すみれの部屋はすぐそこだ。
「じゃ、ここで」
「あの、すみれさん」
ふたり同時に声を発した。お先にどぞ、とすみれが手を差し出し、それじゃ、と逸郎も応じる。
「あの、もしよかったら、餞別一緒に選んでもらってもいいですか。いや、お忙しいようなら断ってくれても…」
「行く。行きます」
今度はすみれが即答する番だったようだ。
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「あまり思いだしたくない経験がひとつだけあった、ということです」
そっかぁ、とだけつぶやき、少しだけ黙り込んだすみれ先生は、表情を元に戻し、明るい声でこう言った。
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少し迷った顔をした逸郎は、伺うような様子で聞いてみる。
「すみれさん、でもいいですか」
しょうがない、よしとしといてやろう、と応えたすみれは苦笑いをして、テーブルの上に積んだカタログの束を崩して広げた。
「それじゃイツロー、ここから未来の愛馬を一緒に探すよ」
すみれが乗りたいと選んだのはSUZUKIのV-Strom250だった。
「もうこれ一択だね。エンジンとか馬力とかどうでもいい。この赤黒に一目惚れしちゃった」
オフロード車に見紛う細身の車体に尖ったフロントフェンダーと大きな丸形ヘッドライト。その上に小型のウィンドシールドが付いている。シャープなスタイルのオンロードバイクだ。
「こりゃかっこいい。なんかヒーローものにでも出てきそう。この赤黒ツートーンならすみれさんの赤ヘル黒ツナギとばっちり合いますよ」
すみれはその感想に満足げに胸を張った。
「で、イツローはどれがいいの?」
「俺はやっぱりアメリカンタイプがいいですね。早く走るよりも長く走る方が性に合ってそうで。ここのカタログには無かったけど、一番好きなのはSUZUKIのSavageですかね。ほら、これです」
逸郎はスマホの検索でヒットした中古バイク市場サイトの画面をすみれに見せた。
「おお、これはまたシンプルで、なかなかいいね。あ、このバイクはもう新車はつくってないのね」
「中古市場を探すしかないですね。そうするとやっぱり一期一会になっちゃうのかな」
「ねえイツロー」
バイク選びもひと段落し、すみれの淹れたドリップコーヒーを相伴するブレイクタイムで、すみれが自信なさげに口を開いた。
「今はまだ早いけど、例えばさ、ふたりともの教習に目途とかがついてきたりしたら……」
話の途中で口籠ったすみれは、深呼吸ひとつして、言葉を繋いだ。
「私と一緒に、バイク屋さん見に行かない? ……嫌じゃなかったら」
消え入りそうになった語尾に被さるように逸郎が応えた。
「喜んで!」
返事を聞いて顔を上げたすみれの頬に真夏の残照が映った。頬が紅いのはきっと夕陽のせい。逸郎はそう思うことにした。
スーツに着替えるすみれを廊下で待っているうちに、外はすっかり暗くなっていた。
「遅くまで付き合わせちゃってごめんね」
ドアに施錠して振り返ったすみれは、片目を瞑って手を合わせる。逸郎はかぶりを振る。
「思ってたより早かったですよ、着替えるの。もっと掛かるかと覚悟してた」
「ツナギ脱いでスーツ着るだけだから、すぐよ」
「え。水着は……」
「もぉ、何聞いてんのよ。イツローのエッチ。仮にもここは研究室よ。《*そんなとこで裸になってたら倒錯の世界に入っちゃうじゃない。*》水着はいまもそのままだよ。見る?」
そう言ってお尻を突き出し、スカートの裾を上げて見せようとするすみれを逸郎は慌てて止めた。
「な、なにやってんですか。それこそここは研究棟の中ですよ。誰が見てるのかわからないのにそんな危ないこと…」
「じゃどこでならいいの?」
「いや、それは……」
しどろもどろになるイツローの背中をパンと叩いて、なぁんてね、と笑うすみれ。ふたりだけだとスーツ姿でも元気で明るい。
並んで裏門を出たふたりは夜道を行く。この辺りは街灯が少ない。
「すみれさんは家は?」
「私は材木町。イツローは今日もアルバイト?」
「いや、今日は休みです」
「え、イツローの部屋、高松って言ってたよね。逆方向じゃない」
「や、駅ビルにちょっと用があって。夏の短期留学に行く奴が明日出発で、なんか餞別でも選ぼうかと」
「なぁんだ。もう少し私と一緒にいたいからじゃないんだ」
拗ねた顔をしてみせるすみれに大慌てでそんなことはないと言い訳する逸郎。もちろん遊ばれているだけである。
「イツロー、おもしろーい」
旧きを温め新しきを知る。そんな雰囲気が漂う石畳の通りで、すみれは逸郎に尋ねた。
「ね。その留学生する子って男の子? 女の子?」
「女子です」
「やっぱりねぇ。あ、もしかして、彼女とか?」
「違いますよ。そんなのいませんって。明日出発するのはサークルの同期」
そっか、いないのか、と呟くすみれ。逸郎には聴こえていない。すみれの部屋はすぐそこだ。
「じゃ、ここで」
「あの、すみれさん」
「あの、すみれさん」
ふたり同時に声を発した。お先にどぞ、とすみれが手を差し出し、それじゃ、と逸郎も応じる。
「あの、もしよかったら、餞別一緒に選んでもらってもいいですか。いや、お忙しいようなら断ってくれても…」
「行く。行きます」
今度はすみれが即答する番だったようだ。