四話 いいわぁ。禁断の恋っぽくて。
ー/ー 裏で最後の片付けをする逸郎にマスターの奥さんが声を掛けてきた。
「いっちゃん、今日はいい仕事したね。すみれちゃん、すごくいいよ。明るいし綺麗だし、楽しくお酒飲んでくれるし。ああいうお客さんが常連になってくれるとお店も華やぐんだけどな。いっちゃん、こんな同伴ならまたやってくれてもいいよ。ご褒美に、一杯目のいっちゃん奢りのボウモア十八年はお店から出しといたげる」
そこかよ、と逸郎は思った。が、一杯二千円がちゃらになるのは確かに助かる。
逸郎に連れられて午後九時前にバー『PotStill』のカウンター席に座ったすみれ先生は、結局閉店間際までいた。マスターは逸郎に送らせようとしたが、すみれ先生がそれを固辞し、自分でタクシーを呼んで帰っていった。
この日はそこそこ客の入りもあったため、相手できたのはすみれ先生が飲んでみたいと言って選んだ逸郎奢りの最初の一杯を終えるまでの間だけ。そのあとはほぼずっと、マスターの奥さんとのスピークイージーを楽しんでいた。とくに昔バイク乗りだったという奥さんの昔話やテクニックについては、実に盛り上がっていたようだ。
「すみれちゃん、生まれは横須賀なんだって。あそこって米軍の基地があるんでしょ。そこの家族の子たちと友だちだったんで、よくベースの中でも遊んだって。そういやいっちゃんもあっちの方だよね」
うちは横浜の外れです、と手を休めずに答える逸郎の洗った皿やグラスを拭きながら、奥さんは話を続ける。
「すみれちゃん、まだこっち来たばかりだからお友だちも馴染みのお店も無いんだって」
奥さんの話から妙な圧を感じる。
「俺になにかさせようってんですか」
「んー、別にー。ただ、すみれちゃんはいい子だなーってだけ。うふふ」
さぁ終わった、と奥さん。逸郎も帰り支度をする。店の掃除を終えたマスターも入ってきて逸郎に声を掛けてきた。
「お疲れさん。しかしいっちゃんにあんな素敵な彼女がいたとはね。おじさんびっくりだよ」
「さっきも言いましたけど、彼女はうちの大学の先生なんですって」
《*「いいわぁ。禁断の恋っぽくて」*》
奥さんの相槌に腕を組んだマスターもうんうんと頷いている。もう、この人たちは。
逸郎は、これ以上相手にはしてられない、と早々に退散した。
二日後に教習所で再会したすみれ先生から、逸郎は一本橋クリアの報を聞いた。マスターの奥さんに伝授された奥義(これでもかというほど両膝を締めて、ひたすら肩の力を抜き、目線の高さで前方百メートルの一点を真っ直ぐ見続ける)によって、今まで眠っていた潜在能力が花開き、完璧なライディングができたんだそうな。話半分としても、見きわめが貰えている事実は揺るがない。
追いかける形の逸郎も順調に一週間余りの教習をこなし、ほぼ毎日会うたびに同志として情報交換を行っていた。
そんな七月上旬のある日、午前中の空き時間に逸郎はシンスケと学食の片隅で駄弁っていた。明日出立するファインの見送りやその後に控える集中講義やらについて、とくに建設的な意見を交わすでもなくただ散発的に喋りあうといういつもの風景である。だから、逸郎の横に人が立ち止まっても、ふたりとも全く意識していなかった。
「田中逸郎さん。お休みのところ申し訳無いんですけど」
頭の上からかけられた声に逸郎もシンスケもぎょっとした。声の主はスーツで身を固め、ボストンフレームの眼鏡をかけている。そんなスタイルで学内を闊歩する美女はひとりしかいない。すみれ先生だった。閑散な学食でゼミ生でもないふたりの前に立つ若く美しい准教授。浮きまくった組み合わせであるこの構図を無視して、彼女は話を続けた。
「先日のレポートについて確認したい点があるんで、今日の午後四時以降に私の研究室に来てもらえますか。詳細についてはそのときにお伝えしますので」
あっけに取られるシンスケは無視して、逸郎はとりあえず頷いた。内容はどうあれ、これが自分に対してのアクセスだと気づくことくらいはできたから。逸郎の受諾を確認し、眼鏡の奥で一瞬だけ満足げな笑顔を見せたすみれ先生は、現れたときと同様、なにもなかったかのようなスマートさで歩き去った。その間約十五秒。
当然のことながら逸郎はシンスケに、何ですみれちゃん先生がお前のこと知ってんの、から始まる雨あられのごとき質問攻めをされることになる。しかし逸郎自身にも内容について思い当たる節はない。もちろん彼女へのレポートなど出したこともない。いずれにしろ、それがバイク教習以外のことと考えるのは無理がある、そして、彼女が教習所に通っていることは秘密なのだ。だからこう答える以外にできることはなかった。
「横尾先生の勘違いだと思うけど、とにかくあとで行ってみるよ」
確かに、本日の教習予約が取れなかったことは昨日も話題にしてはいたけれど。いったいなんの用なのか。学内で話しかけられたことなんて今まで一度も無かったのに。
不安と好奇心半々のまま、逸郎は指定された時間にすみれ先生の研究室のドアをノックした。
「いっちゃん、今日はいい仕事したね。すみれちゃん、すごくいいよ。明るいし綺麗だし、楽しくお酒飲んでくれるし。ああいうお客さんが常連になってくれるとお店も華やぐんだけどな。いっちゃん、こんな同伴ならまたやってくれてもいいよ。ご褒美に、一杯目のいっちゃん奢りのボウモア十八年はお店から出しといたげる」
そこかよ、と逸郎は思った。が、一杯二千円がちゃらになるのは確かに助かる。
逸郎に連れられて午後九時前にバー『PotStill』のカウンター席に座ったすみれ先生は、結局閉店間際までいた。マスターは逸郎に送らせようとしたが、すみれ先生がそれを固辞し、自分でタクシーを呼んで帰っていった。
この日はそこそこ客の入りもあったため、相手できたのはすみれ先生が飲んでみたいと言って選んだ逸郎奢りの最初の一杯を終えるまでの間だけ。そのあとはほぼずっと、マスターの奥さんとのスピークイージーを楽しんでいた。とくに昔バイク乗りだったという奥さんの昔話やテクニックについては、実に盛り上がっていたようだ。
「すみれちゃん、生まれは横須賀なんだって。あそこって米軍の基地があるんでしょ。そこの家族の子たちと友だちだったんで、よくベースの中でも遊んだって。そういやいっちゃんもあっちの方だよね」
うちは横浜の外れです、と手を休めずに答える逸郎の洗った皿やグラスを拭きながら、奥さんは話を続ける。
「すみれちゃん、まだこっち来たばかりだからお友だちも馴染みのお店も無いんだって」
奥さんの話から妙な圧を感じる。
「俺になにかさせようってんですか」
「んー、別にー。ただ、すみれちゃんはいい子だなーってだけ。うふふ」
さぁ終わった、と奥さん。逸郎も帰り支度をする。店の掃除を終えたマスターも入ってきて逸郎に声を掛けてきた。
「お疲れさん。しかしいっちゃんにあんな素敵な彼女がいたとはね。おじさんびっくりだよ」
「さっきも言いましたけど、彼女はうちの大学の先生なんですって」
《*「いいわぁ。禁断の恋っぽくて」*》
奥さんの相槌に腕を組んだマスターもうんうんと頷いている。もう、この人たちは。
逸郎は、これ以上相手にはしてられない、と早々に退散した。
二日後に教習所で再会したすみれ先生から、逸郎は一本橋クリアの報を聞いた。マスターの奥さんに伝授された奥義(これでもかというほど両膝を締めて、ひたすら肩の力を抜き、目線の高さで前方百メートルの一点を真っ直ぐ見続ける)によって、今まで眠っていた潜在能力が花開き、完璧なライディングができたんだそうな。話半分としても、見きわめが貰えている事実は揺るがない。
追いかける形の逸郎も順調に一週間余りの教習をこなし、ほぼ毎日会うたびに同志として情報交換を行っていた。
そんな七月上旬のある日、午前中の空き時間に逸郎はシンスケと学食の片隅で駄弁っていた。明日出立するファインの見送りやその後に控える集中講義やらについて、とくに建設的な意見を交わすでもなくただ散発的に喋りあうといういつもの風景である。だから、逸郎の横に人が立ち止まっても、ふたりとも全く意識していなかった。
「田中逸郎さん。お休みのところ申し訳無いんですけど」
頭の上からかけられた声に逸郎もシンスケもぎょっとした。声の主はスーツで身を固め、ボストンフレームの眼鏡をかけている。そんなスタイルで学内を闊歩する美女はひとりしかいない。すみれ先生だった。閑散な学食でゼミ生でもないふたりの前に立つ若く美しい准教授。浮きまくった組み合わせであるこの構図を無視して、彼女は話を続けた。
「先日のレポートについて確認したい点があるんで、今日の午後四時以降に私の研究室に来てもらえますか。詳細についてはそのときにお伝えしますので」
あっけに取られるシンスケは無視して、逸郎はとりあえず頷いた。内容はどうあれ、これが自分に対してのアクセスだと気づくことくらいはできたから。逸郎の受諾を確認し、眼鏡の奥で一瞬だけ満足げな笑顔を見せたすみれ先生は、現れたときと同様、なにもなかったかのようなスマートさで歩き去った。その間約十五秒。
当然のことながら逸郎はシンスケに、何ですみれちゃん先生がお前のこと知ってんの、から始まる雨あられのごとき質問攻めをされることになる。しかし逸郎自身にも内容について思い当たる節はない。もちろん彼女へのレポートなど出したこともない。いずれにしろ、それがバイク教習以外のことと考えるのは無理がある、そして、彼女が教習所に通っていることは秘密なのだ。だからこう答える以外にできることはなかった。
「横尾先生の勘違いだと思うけど、とにかくあとで行ってみるよ」
確かに、本日の教習予約が取れなかったことは昨日も話題にしてはいたけれど。いったいなんの用なのか。学内で話しかけられたことなんて今まで一度も無かったのに。
不安と好奇心半々のまま、逸郎は指定された時間にすみれ先生の研究室のドアをノックした。
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そこかよ、と逸郎は思った。が、一杯二千円がちゃらになるのは確かに助かる。
逸郎に連れられて午後九時前にバー『PotStill』のカウンター席に座ったすみれ先生は、結局閉店間際までいた。マスターは逸郎に送らせようとしたが、すみれ先生がそれを固辞し、自分でタクシーを呼んで帰っていった。
この日はそこそこ客の入りもあったため、相手できたのはすみれ先生が飲んでみたいと言って選んだ逸郎奢りの最初の一杯を終えるまでの間だけ。そのあとはほぼずっと、マスターの奥さんとのスピークイージーを楽しんでいた。とくに昔バイク乗りだったという奥さんの昔話やテクニックについては、実に盛り上がっていたようだ。
この日はそこそこ客の入りもあったため、相手できたのはすみれ先生が飲んでみたいと言って選んだ逸郎奢りの最初の一杯を終えるまでの間だけ。そのあとはほぼずっと、マスターの奥さんとのスピークイージーを楽しんでいた。とくに昔バイク乗りだったという奥さんの昔話やテクニックについては、実に盛り上がっていたようだ。
「すみれちゃん、生まれは横須賀なんだって。あそこって米軍の基地があるんでしょ。そこの家族の子たちと友だちだったんで、よくベースの中でも遊んだって。そういやいっちゃんもあっちの方だよね」
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《*「いいわぁ。禁断の恋っぽくて」*》
奥さんの相槌に腕を組んだマスターもうんうんと頷いている。もう、この人たちは。
逸郎は、これ以上相手にはしてられない、と早々に退散した。
逸郎は、これ以上相手にはしてられない、と早々に退散した。
二日後に教習所で再会したすみれ先生から、逸郎は一本橋クリアの報を聞いた。マスターの奥さんに伝授された奥義(これでもかというほど両膝を締めて、ひたすら肩の力を抜き、目線の高さで前方百メートルの一点を真っ直ぐ見続ける)によって、今まで眠っていた潜在能力が花開き、完璧なライディングができたんだそうな。話半分としても、見きわめが貰えている事実は揺るがない。
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追いかける形の逸郎も順調に一週間余りの教習をこなし、ほぼ毎日会うたびに同志として情報交換を行っていた。
そんな七月上旬のある日、午前中の空き時間に逸郎はシンスケと学食の片隅で駄弁っていた。明日|出立《しゅったつ》するファインの見送りやその後に控える集中講義やらについて、とくに建設的な意見を交わすでもなくただ散発的に喋りあうといういつもの風景である。だから、逸郎の横に人が立ち止まっても、ふたりとも全く意識していなかった。
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不安と好奇心半々のまま、逸郎は指定された時間にすみれ先生の研究室のドアをノックした。
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