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一話 先輩、なにボッチくんしてるんですか?

ー/ー



 朝イチから始まる一般教養必修講義の階段方大教室は、この二か月ですっかり大学にも慣れて我が物顔となった一年生たちの眠そうな顔で埋められている。昨年、不覚にも単位を落としてしまった逸郎は、教室一番後ろの角席で可能な限り存在を消していた。隣の席の知らない学生はさっきから船を漕いでいる。出席命と言われるこの講義は老教授の話が聞き取りにくくて、とにかく眠いのだ。けれど逸郎は、別の理由で講義に集中できずにいる。

 始業の五分ほど前に遅刻せずに出席してきた逸郎は、すでに七割がた埋まった教室で最後列にいくつかの空きを見つけた。その中でも最も目立たない右奥の席を選び、無事席についた。
 逸郎が授業の準備を整えているとき視界の隅で、席とは反対側にある非常扉が開いて誰か入ってきたのが見えた。季節外れの地味なスプリングコートを羽織ったその女子学生は、手近にある席に腰をかけた。鼈甲縁の眼鏡には見覚えなかったが、あれは弥生だ。そうか、戻ったのか。ホント、涼子の勘って当たるよな。あいつ絶対なんか能力持ってるよ。逸郎がそんなことを考えているうちに、いつの間にか教壇についていた老教授がなにかもごもごと話し始めていた。

 ゲストとの騎乗位本番行為を流したのがバレてヤリスちゃんねる自体がバンされてから一週間、ようやく槍須の呪縛から逃げられたのか。売春紛いのことまでさせられてたこの一か月余りは悪夢だったろうな。いやそれとも、涼子の言う通り弥生自身の望んでいたあの毎日が、心無い当局の鉄槌によって破壊された、とするのが正しいのか。
 知らぬ間にはじまっていた講義の中、ただでさえ馴染むことのできない老教授の声は、弥生のことで一杯の逸郎の耳を素通りしていく。


「まーや。まーや!」

 講義が終わり退室しようと非常扉に手を掛けていた弥生に、大声をかけながら最前列から駆け上がってる五月蝿いのがいた。顔を見なくても逸郎にはわかる。同じサークルの原町田由香里だ。弥生と同級生で、サークルでも大概は一緒にいる。声が大きくて喋りがマシンガン、そのうえ空気を読まない。逸郎には少し苦手なタイプ。
 弥生は退出する足を止め、由香里が上がってくるのを待っていた。立ち話をする二人。最近ハマってるドラマとか美味しいラーメンショップとか夏休みにしたいこととか。そんな普通の女子の話題が、声量のせいなのか、由香里の声ばかりで漏れ聞こえてくる。いや、もともとあの二人は、話し役の由香里と聞き役の弥生という編成だったっけ。ふたりを目で追っているうちに退室するタイミングを失った逸郎は、ふたりの立ち位置とは反対側の最後列席で立ちあがったままひとり残っている。先に由香里が逸郎に気づいた。

「あ、イツロー先輩だ。せんぱーい、そんなところでなにボッチくんしてるんですかぁ」

 由香里が呼びかけていると、弥生は踵を返し、そそくさと非常扉から外に出ていった。

「あ、待ってよ、まーやぁ」

 一瞬、怪訝そうな一瞥を逸郎に向けた由香里だったが、すぐに弥生を追いかけ教室を出ていく。ひとり取り残された逸郎は、力なく座席に腰を落とした。
 やっぱり、俺とは顔合わせづらいんだろうな。逸郎は弥生と対峙しないですんだことにホッとしてる自分が情けないと感じていた。


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 朝イチから始まる一般教養必修講義の階段方大教室は、この二か月ですっかり大学にも慣れて我が物顔となった一年生たちの眠そうな顔で埋められている。昨年、不覚にも単位を落としてしまった逸郎は、教室一番後ろの角席で可能な限り存在を消していた。隣の席の知らない学生はさっきから船を漕いでいる。出席命と言われるこの講義は老教授の話が聞き取りにくくて、とにかく眠いのだ。けれど逸郎は、別の理由で講義に集中できずにいる。
 始業の五分ほど前に遅刻せずに出席してきた逸郎は、すでに七割がた埋まった教室で最後列にいくつかの空きを見つけた。その中でも最も目立たない右奥の席を選び、無事席についた。
 逸郎が授業の準備を整えているとき視界の隅で、席とは反対側にある非常扉が開いて誰か入ってきたのが見えた。季節外れの地味なスプリングコートを羽織ったその女子学生は、手近にある席に腰をかけた。鼈甲縁の眼鏡には見覚えなかったが、あれは弥生だ。そうか、戻ったのか。ホント、涼子の勘って当たるよな。あいつ絶対なんか能力持ってるよ。逸郎がそんなことを考えているうちに、いつの間にか教壇についていた老教授がなにかもごもごと話し始めていた。
 ゲストとの騎乗位本番行為を流したのがバレてヤリスちゃんねる自体がバンされてから一週間、ようやく槍須の呪縛から逃げられたのか。売春紛いのことまでさせられてたこの一か月余りは悪夢だったろうな。いやそれとも、涼子の言う通り弥生自身の望んでいたあの毎日が、心無い当局の鉄槌によって破壊された、とするのが正しいのか。
 知らぬ間にはじまっていた講義の中、ただでさえ馴染むことのできない老教授の声は、弥生のことで一杯の逸郎の耳を素通りしていく。
「まーや。まーや!」
 講義が終わり退室しようと非常扉に手を掛けていた弥生に、大声をかけながら最前列から駆け上がってる五月蝿いのがいた。顔を見なくても逸郎にはわかる。同じサークルの原町田由香里だ。弥生と同級生で、サークルでも大概は一緒にいる。声が大きくて喋りがマシンガン、そのうえ空気を読まない。逸郎には少し苦手なタイプ。
 弥生は退出する足を止め、由香里が上がってくるのを待っていた。立ち話をする二人。最近ハマってるドラマとか美味しいラーメンショップとか夏休みにしたいこととか。そんな普通の女子の話題が、声量のせいなのか、由香里の声ばかりで漏れ聞こえてくる。いや、もともとあの二人は、話し役の由香里と聞き役の弥生という編成だったっけ。ふたりを目で追っているうちに退室するタイミングを失った逸郎は、ふたりの立ち位置とは反対側の最後列席で立ちあがったままひとり残っている。先に由香里が逸郎に気づいた。
「あ、イツロー先輩だ。せんぱーい、そんなところでなにボッチくんしてるんですかぁ」
 由香里が呼びかけていると、弥生は踵を返し、そそくさと非常扉から外に出ていった。
「あ、待ってよ、まーやぁ」
 一瞬、怪訝そうな一瞥を逸郎に向けた由香里だったが、すぐに弥生を追いかけ教室を出ていく。ひとり取り残された逸郎は、力なく座席に腰を落とした。
 やっぱり、俺とは顔合わせづらいんだろうな。逸郎は弥生と対峙しないですんだことにホッとしてる自分が情けないと感じていた。