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十話 おやすみなさい。

ー/ー



「ちょっと待って、弥生」

 逸郎は繋いでいる手を引いて、布団の敷いてある四畳半に(いざな)おうとする弥生を引き留めた。振り返った弥生は、邪気の無い(イノセントな)瞳で見つめ返してくる。

「さっき聞いてたはずだ。俺は彼女を裏切れないって」

 弥生は、滋味に満ちた笑顔を逸郎に見せてから表情を戻し、ゆっくりと語りはじめた。

「カノジョに、恋人にしてください、なんて言いません。誠実でないイツローさんは、やっぱりイツローさんじゃないし。ただ、ここに置いてくれてる間だけは、一番近くに私を寄り添わせて欲しいんです」

「本当はものすごく抱いて欲しい。他の誰かじゃない、イツローさんを私の中で感じたい。けど、それはできなくてもしょうがない。イツローさんを悦ばすことならなんでもしてあげたい。でも、それをさせてもらえないのも諦める。だけど、手を繋いで寄り添って寝るだけも、駄目ですか?」

 弥生は切々と訴えていた。その想いが、繋いだ指を通して逸郎に内側(なか)に流れ込んでくる。
 リモコンを拾ってTVの電源を落とし暗くなった部屋で、断る理由を失った逸郎は弥生に手を引かれ隣室に向かった。




 物音ひとつしない八月半ばの杜陸(もりおか)の深夜は、一時期に比べるとずっと涼しくなっている。ついさっきまで網戸のみの窓全開で外気と入れ替えていた四畳半は、すっかり居心地の良い涼しさとなっていて、それは窓を半分閉めても変わりなかった。
 丁度いいくらいに冷えた一人用の敷布団に、ふたり並んで寝る。逸郎は枕を、弥生はクッションを頭の下に敷き、タオルケットを二本串に刺した蒲焼のように掛けて。

 弥生が自分を強く求めていることは、今ならはっきりわかる。でもそれ以上に、弥生は自分を尊重してくれようとしている。それによって、新たなストレスがかかるであろうことも厭わずに。
 すみれの恋人である自分ならば、今の選択は正しい。だが、弥生の心を救い、健康にさせるという試みからすれば、これが一番でないこともわかっている。
 自分はなにがしたいのか。自分は何が大事なのか。そして自分はどうすべきなのか。そんなことが、逸郎の頭の中でぐるぐると追いかけっこをしている。ゴール板はもう何度も通り過ぎたのに、終回を告げる(ジャン)はいつまで経っても鳴りそうにない。
 答えが出ないまま、逸郎は弥生と繋いだ手を離せずにいる。




「最初とき、私、槍須さんに看破されたんです」

 繋いだ手の熱に意識が集中していた逸郎は、弥生の独白に不意を突かれ、思わず首を回して隣を見た。居間の常夜灯の薄明りに浮かび上がる整った横顔が、天井に向かって訥々と語りはじめている。

「男社会の呪い。槍須さんはそう言ってましたけど、結婚するまで処女でいなさいっていう呪縛、たしかに私には根強くありました。それを強烈に指摘され、迂闊にも共感してしまったんです」

「共感自体は今でも間違ってなかったかな、って思ってます。でも、共感の意思表示がその場でのセックスに直結するっていうすり替えを拒絶できなかったのは、今ならわかる。完全に私の落ち度」

 結局のところ基本的な経験が不足してたんです。横顔はそう言って、自嘲気味に笑った。

「でも、促成栽培みたいな最初のセックスで、私の中にいた、主に躰を司ってる私が目醒めちゃったんです。気持ちよくなってもいいんだ、って。それを認めてしまったら、あとはもう、躰のどの部分をどう触られるとどんなふうに気持ちが良くなるのか、そんなことを探求するのに夢中になってしまって」

 逸郎は、語りを続ける弥生の横顔から目を離せずにいた。ちゃんと聞いて、受け止めてやらなくちゃいけない。そう思いながら。

「そういう意味で、槍須さんはうってつけでした。あの人は恥ずかしいと思う私の既成概念をどんどん無効にして、代わりに体験し、見られることで得られる背徳的な快感を次々と用意してきた」

 小さなため息を漏らし、ひと呼吸をおいた弥生は、再び口を開く。

「そうやって私は、もうどうしようもなく淫乱な自分を認めちゃったんです」

 そう言うと、弥生は押し黙った。続くのか、それとも終わったのか、逸郎には判断できなかった。ただこれが言いたいことのすべてではないだろう、ということだけはわかっていた。




「今夜はこのくらいにしておきます。でないと私、自分の気持ちが抑えられなくなりそうだから」

 ようやく口を開いた弥生は、そうして長い一日の終わりを告げた。

「おやすみなさい。イツローさん」

「おやすみ。弥生」

 逸郎は身じろぎもできなかった。自分の心臓が、弥生と繋いだ掌にあるんじゃないかと錯覚するほど、身体中のすべての神経がそこに集約しているように思えた。
 ほどなく隣から寝息が聴こえてきた。ようやく緊張を解いた逸郎は、少しだけ身体をほぐしてから、しっかりと目を閉じる。
 今日は本当にいろいろあった。そう思い返す間もなく、逸郎も眠りに落ちた。


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「ちょっと待って、弥生」
 逸郎は繋いでいる手を引いて、布団の敷いてある四畳半に|誘《いざな》おうとする弥生を引き留めた。振り返った弥生は、|邪気の無い《イノセントな》瞳で見つめ返してくる。
「さっき聞いてたはずだ。俺は彼女を裏切れないって」
 弥生は、滋味に満ちた笑顔を逸郎に見せてから表情を戻し、ゆっくりと語りはじめた。
「カノジョに、恋人にしてください、なんて言いません。誠実でないイツローさんは、やっぱりイツローさんじゃないし。ただ、ここに置いてくれてる間だけは、一番近くに私を寄り添わせて欲しいんです」
「本当はものすごく抱いて欲しい。他の誰かじゃない、イツローさんを私の中で感じたい。けど、それはできなくてもしょうがない。イツローさんを悦ばすことならなんでもしてあげたい。でも、それをさせてもらえないのも諦める。だけど、手を繋いで寄り添って寝るだけも、駄目ですか?」
 弥生は切々と訴えていた。その想いが、繋いだ指を通して逸郎に内側《なか》に流れ込んでくる。
 リモコンを拾ってTVの電源を落とし暗くなった部屋で、断る理由を失った逸郎は弥生に手を引かれ隣室に向かった。
 物音ひとつしない八月半ばの杜陸《もりおか》の深夜は、一時期に比べるとずっと涼しくなっている。ついさっきまで網戸のみの窓全開で外気と入れ替えていた四畳半は、すっかり居心地の良い涼しさとなっていて、それは窓を半分閉めても変わりなかった。
 丁度いいくらいに冷えた一人用の敷布団に、ふたり並んで寝る。逸郎は枕を、弥生はクッションを頭の下に敷き、タオルケットを二本串に刺した蒲焼のように掛けて。
 弥生が自分を強く求めていることは、今ならはっきりわかる。でもそれ以上に、弥生は自分を尊重してくれようとしている。それによって、新たなストレスがかかるであろうことも厭わずに。
 すみれの恋人である自分ならば、今の選択は正しい。だが、弥生の心を救い、健康にさせるという試みからすれば、これが一番でないこともわかっている。
 自分はなにがしたいのか。自分は何が大事なのか。そして自分はどうすべきなのか。そんなことが、逸郎の頭の中でぐるぐると追いかけっこをしている。ゴール板はもう何度も通り過ぎたのに、終回を告げる鐘《ジャン》はいつまで経っても鳴りそうにない。
 答えが出ないまま、逸郎は弥生と繋いだ手を離せずにいる。
「最初とき、私、槍須さんに看破されたんです」
 繋いだ手の熱に意識が集中していた逸郎は、弥生の独白に不意を突かれ、思わず首を回して隣を見た。居間の常夜灯の薄明りに浮かび上がる整った横顔が、天井に向かって訥々と語りはじめている。
「男社会の呪い。槍須さんはそう言ってましたけど、結婚するまで処女でいなさいっていう呪縛、たしかに私には根強くありました。それを強烈に指摘され、迂闊にも共感してしまったんです」
「共感自体は今でも間違ってなかったかな、って思ってます。でも、共感の意思表示がその場でのセックスに直結するっていうすり替えを拒絶できなかったのは、今ならわかる。完全に私の落ち度」
 結局のところ基本的な経験が不足してたんです。横顔はそう言って、自嘲気味に笑った。
「でも、促成栽培みたいな最初のセックスで、私の中にいた、主に躰を司ってる私が目醒めちゃったんです。気持ちよくなってもいいんだ、って。それを認めてしまったら、あとはもう、躰のどの部分をどう触られるとどんなふうに気持ちが良くなるのか、そんなことを探求するのに夢中になってしまって」
 逸郎は、語りを続ける弥生の横顔から目を離せずにいた。ちゃんと聞いて、受け止めてやらなくちゃいけない。そう思いながら。
「そういう意味で、槍須さんはうってつけでした。あの人は恥ずかしいと思う私の既成概念をどんどん無効にして、代わりに体験し、見られることで得られる背徳的な快感を次々と用意してきた」
 小さなため息を漏らし、ひと呼吸をおいた弥生は、再び口を開く。
「そうやって私は、もうどうしようもなく淫乱な自分を認めちゃったんです」
 そう言うと、弥生は押し黙った。続くのか、それとも終わったのか、逸郎には判断できなかった。ただこれが言いたいことのすべてではないだろう、ということだけはわかっていた。
「今夜はこのくらいにしておきます。でないと私、自分の気持ちが抑えられなくなりそうだから」
 ようやく口を開いた弥生は、そうして長い一日の終わりを告げた。
「おやすみなさい。イツローさん」
「おやすみ。弥生」
 逸郎は身じろぎもできなかった。自分の心臓が、弥生と繋いだ掌にあるんじゃないかと錯覚するほど、身体中のすべての神経がそこに集約しているように思えた。
 ほどなく隣から寝息が聴こえてきた。ようやく緊張を解いた逸郎は、少しだけ身体をほぐしてから、しっかりと目を閉じる。
 今日は本当にいろいろあった。そう思い返す間もなく、逸郎も眠りに落ちた。