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六話 好きじゃないの?

ー/ー



 仲居さんが出て行きふたりきりになった部屋で、すみれは待ち構えていたように口を開いた。

「イツロー怒ってない? 勝手に部屋なんか取って」

 心配顔で見つめてくるすみれを見て、逸郎は自分が困惑顔のままだったことに気づいた。
 肩の力を抜こう。

「そりゃ、びっくりしたよ。いきなりホテルの駐車場に入ってくんだもん。なんかあったのかって思うじゃん」

 表情を緩めて、逸郎は続ける。

「でも、ありがとう。ホントは企画立てた俺が気づいてやらなきゃいけなかったんだよな。炎天下を丸一日走って疲れてるのに、そのままナイトツーリングなんて無茶だって」

 ちょっと違うけど、ま、いっか、と呟いたすみれは、荷物を隅にまとめながらこう誘ってきた。

「ね、イツロー。荷物片付けたら、浴衣に着替えて散歩に行こ」


 三階の部屋からは十和田湖が一望できる、という話だったが、陽光が沈んだ今の窓の外は、ほぼ真っ黒だ。
 窓に映る浴室の入り口から人影が現れる。逸郎が振り返ると、浴衣に着替え終えたすみれが立っていた。足元は裸足。

「どう?可愛い?」

 えんじ色のシーツが掛かる奥のベッドの横で、すみれは片膝を少し曲げた町娘のポーズをとる。見惚れて固まる逸郎は、自動人形のような抑揚のない声で応えた。

「……かわいい」

 ふんす、と鼻息を鳴らし胸を張るすみれ。答えには満足したらしい。

「ほら、見蕩れてないで。散歩行くよ」

 ホテルが貸してくれた草履を履き、すみれは前に立って部屋を出る。逸郎もルームキーを掴んで後を追った。



 ホテルの前の坂を五分ほど下るとJRの十和田湖駅。といっても鉄道ではなく、バス路線だ。そしてその先はもう湖畔。
 水際に沿った夜の遊歩道を手を繋いで歩く。左側に広がる湖面は真っ暗闇でよく見えないが、海とは違う優しい波が打つ静かな音は聞こえる。
 バイクに乗っているときよりも高い位置で縛ったポニーテール。どっちかっていうとこっちの方が好きかな。
 逸郎は、湖を背景(バック)にしたすみれの横顔を見ていた。

「よそ見してたら転んじゃうよ」

 そう言いながら身を寄せて、Tシャツの袖から剥き出しになっている逸郎の左腕を胸に抱くすみれ。肘に当たる尋常ではない柔らかさに、逸郎は緊張する。もしや。浴衣の下は……。

「つけてないよ」

 先回りしたすみれは、うふふと笑う。

「だって今日、イツローが私のおっぱい好きだって言ってたから」

「……あのときは、嫌いじゃないって言っただけで……」

 ぼそぼそと歯切れの悪い逸郎の顔を見上げ、すみれは間髪置かず訊いてくる。

「好きじゃないの?」

 すみれの顔が近い。逸郎の口が、好きですと言おうとした瞬間、すみれは回していた手を放して、逸郎の前に飛び出した。

「なぁんてね」

 そう誤魔化して、すみれは向かい合った逸郎の両手を、それぞれの手で取った。

「ごめんね。ひとりで浮かれちゃってて。なんかもう嬉しくって。いつもとは違うところで、ふたりっきりで寄り添っていられて」

 すみれは、うふふ、と笑っている。
 大丈夫、と逸郎も答える。

「俺もすみれといっしょで嬉しいから」

 破顔して抱きついてくるすみれの向こうで、銅像の少女がふたり、手を重ねて立っていた。




 ホテルに戻って来たふたりは、店仕舞い間際の土産物コーナーで買い物をした。背中に「奥入瀬渓流」と書いてある黒と白のTシャツを色違いの揃いで。

「明日はここも行ってみようね」

 子犬のように逸郎にじゃれつきながら、すみれはねだってくる。柔らかく微笑む逸郎が首肯する。
 イツローの着替えも買っとかなきゃ、とすみれが持ってきたのは、十和田湖マークの入ったボクサーパンツ。しかもなぜか二枚入り。

「これなら、もう一泊もいけちゃうね」

 そう言って笑ったすみれは、夜にお腹空いたとき用のお菓子買っとかなきゃ、と別の棚を見に行った。全身で旅を楽しんでいるすみれに苦笑する逸郎だったが、内心は大いに焦っていた。さっき見た限り、この観光地にはコンビニもドラッグストアも無い。湖畔荘の向かいに、代わりになるであろう雑貨屋が一軒だけあるのだが、ふたりが散歩に出たときには既に閉まっていた。
 迂闊だった、そう逸郎は悔やんだ。こんなことならシンスケの言う「日常的男子の嗜み」を、財布の中にでも忍ばせておくんだった、と。こういう事態が来ることだって、十二分に想像できたというのに。

 別々の大浴場でツーリングの汗を流し浴衣に着替えた逸郎は、先に部屋に入ると、覚悟を決めて、すみれの戻りを待った。


 ぽかぽかと上気し髪を下したすっぴんのすみれが、部屋に帰ってきていきなり見せられたのは、ベッドの上で深々と土下座する逸郎の姿だった。


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次のエピソードへ進む 七話 だって奥さんなんだから。


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 仲居さんが出て行きふたりきりになった部屋で、すみれは待ち構えていたように口を開いた。
「イツロー怒ってない? 勝手に部屋なんか取って」
 心配顔で見つめてくるすみれを見て、逸郎は自分が困惑顔のままだったことに気づいた。
 肩の力を抜こう。
「そりゃ、びっくりしたよ。いきなりホテルの駐車場に入ってくんだもん。なんかあったのかって思うじゃん」
 表情を緩めて、逸郎は続ける。
「でも、ありがとう。ホントは企画立てた俺が気づいてやらなきゃいけなかったんだよな。炎天下を丸一日走って疲れてるのに、そのままナイトツーリングなんて無茶だって」
 ちょっと違うけど、ま、いっか、と呟いたすみれは、荷物を隅にまとめながらこう誘ってきた。
「ね、イツロー。荷物片付けたら、浴衣に着替えて散歩に行こ」
 三階の部屋からは十和田湖が一望できる、という話だったが、陽光が沈んだ今の窓の外は、ほぼ真っ黒だ。
 窓に映る浴室の入り口から人影が現れる。逸郎が振り返ると、浴衣に着替え終えたすみれが立っていた。足元は裸足。
「どう?可愛い?」
 えんじ色のシーツが掛かる奥のベッドの横で、すみれは片膝を少し曲げた町娘のポーズをとる。見惚れて固まる逸郎は、自動人形のような抑揚のない声で応えた。
「……かわいい」
 ふんす、と鼻息を鳴らし胸を張るすみれ。答えには満足したらしい。
「ほら、見蕩れてないで。散歩行くよ」
 ホテルが貸してくれた草履を履き、すみれは前に立って部屋を出る。逸郎もルームキーを掴んで後を追った。
 ホテルの前の坂を五分ほど下るとJRの十和田湖駅。といっても鉄道ではなく、バス路線だ。そしてその先はもう湖畔。
 水際に沿った夜の遊歩道を手を繋いで歩く。左側に広がる湖面は真っ暗闇でよく見えないが、海とは違う優しい波が打つ静かな音は聞こえる。
 バイクに乗っているときよりも高い位置で縛ったポニーテール。どっちかっていうとこっちの方が好きかな。
 逸郎は、湖を背景《バック》にしたすみれの横顔を見ていた。
「よそ見してたら転んじゃうよ」
 そう言いながら身を寄せて、Tシャツの袖から剥き出しになっている逸郎の左腕を胸に抱くすみれ。肘に当たる尋常ではない柔らかさに、逸郎は緊張する。もしや。浴衣の下は……。
「つけてないよ」
 先回りしたすみれは、うふふと笑う。
「だって今日、イツローが私のおっぱい好きだって言ってたから」
「……あのときは、嫌いじゃないって言っただけで……」
 ぼそぼそと歯切れの悪い逸郎の顔を見上げ、すみれは間髪置かず訊いてくる。
「好きじゃないの?」
 すみれの顔が近い。逸郎の口が、好きですと言おうとした瞬間、すみれは回していた手を放して、逸郎の前に飛び出した。
「なぁんてね」
 そう誤魔化して、すみれは向かい合った逸郎の両手を、それぞれの手で取った。
「ごめんね。ひとりで浮かれちゃってて。なんかもう嬉しくって。いつもとは違うところで、ふたりっきりで寄り添っていられて」
 すみれは、うふふ、と笑っている。
 大丈夫、と逸郎も答える。
「俺もすみれといっしょで嬉しいから」
 破顔して抱きついてくるすみれの向こうで、銅像の少女がふたり、手を重ねて立っていた。
 ホテルに戻って来たふたりは、店仕舞い間際の土産物コーナーで買い物をした。背中に「奥入瀬渓流」と書いてある黒と白のTシャツを色違いの揃いで。
「明日はここも行ってみようね」
 子犬のように逸郎にじゃれつきながら、すみれはねだってくる。柔らかく微笑む逸郎が首肯する。
 イツローの着替えも買っとかなきゃ、とすみれが持ってきたのは、十和田湖マークの入ったボクサーパンツ。しかもなぜか二枚入り。
「これなら、もう一泊もいけちゃうね」
 そう言って笑ったすみれは、夜にお腹空いたとき用のお菓子買っとかなきゃ、と別の棚を見に行った。全身で旅を楽しんでいるすみれに苦笑する逸郎だったが、内心は大いに焦っていた。さっき見た限り、この観光地にはコンビニもドラッグストアも無い。湖畔荘の向かいに、代わりになるであろう雑貨屋が一軒だけあるのだが、ふたりが散歩に出たときには既に閉まっていた。
 迂闊だった、そう逸郎は悔やんだ。こんなことならシンスケの言う「日常的男子の嗜み」を、財布の中にでも忍ばせておくんだった、と。こういう事態が来ることだって、十二分に想像できたというのに。
 別々の大浴場でツーリングの汗を流し浴衣に着替えた逸郎は、先に部屋に入ると、覚悟を決めて、すみれの戻りを待った。
 ぽかぽかと上気し髪を下したすっぴんのすみれが、部屋に帰ってきていきなり見せられたのは、ベッドの上で深々と土下座する逸郎の姿だった。