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二話 私、降ります、運転手さん。

ー/ー



 本当に挨拶だけのつもりでした。だって私の心は、早くイツロー先輩の下に戻って、先輩を安心させたい気持ちでいっぱいでしたから。
 ふたりでゆっくりと愛を育んでいく。最初のデートで手をつなぎ、最初のキスは夏の終わりの砂浜で。先に卒業する先輩が安心できる仕事を携えて、私の卒業式の日に迎えに来る。そうして私たちは心身ともに結ばれるの。そんなところまで一気に、そのときの私は夢想していたのです。でも結局、イツロー先輩の下に戻ることはできませんでした。

「いいねぇ弥生ちゃんのお洋服、シンプルで。なんかカリ城のクラリスみたいじゃん」

 自己紹介のあと、槍須先輩が私のコーディネートを褒めてくれました。気づいてもらえたのは嬉しいけど、どうせならイツロー先輩に言って欲しかった。そう思って視線を向けたけど、イツロー先輩は向こう側の席の人と喋っていて、こちらを向いてはいませんでした。

 未成年だからとお断りしていたのですが、同級生のゆかりんが飲まされているのに、私だけがお酒を飲まないわけにはいきません。一杯が二杯に、二杯が三杯にと重ねられ、気が付いたらゆかりんがいなくなっていました。周りの先輩方のお話によると、酔って気分が悪くなったので手の空いてる二年生に介抱してもらってるんだとか。

「ゆかりんちゃんはさぁ、もう戻ってこないよ。たぶんあのままホテルにでも連れてかれちゃうんじゃないのかな。ほら、さっきまであそこに座ってた奴もいないだろ」

 槍須先輩が指差した空席は私の最初の席の隣、イツロー先輩の席でした。向かいの空席を見ると、ゆかりんの荷物も消えています。

「まったくしょうがないよな。いたいけな新入生を酔いにかこつけて手籠めにしちゃうなんてな。ホント、男の風上にも置けない」

 槍須先輩はそう非難しながら笑っていました。でも私の耳にはそれが軽口には聞こえませんでした。初めてのお酒で酔っていたのでしょう。イツロー先輩を信じている本来の私であれば、そんな戯言は一蹴したはず。でもそのときはほんの小さな疑惑が何十倍にも大きくなって私の心を黒く覆っていました。私のことを好きだと言っていたのに裏切られた。そう思ってしまったのです。その所為でしょうか。すぐそのあとに、外で呑み直すぞ、と言う槍須先輩の誘いにも強く抗うこともなく立ち上がってしまいました。


 お店の下駄箱で靴を履き替えるとき、うしろで槍須先輩が雑談をしていました。相手の上級生は、薄笑いを浮かべながら何か言っています。少し気持ち悪い笑い方だったので印象に残りました。

「ゆかりんちゃんは二年の田中がタクシーで送ってったってさ。まぁ行き先はご自宅じゃないかもしれないけど」

 槍須先輩も同じ顔をして笑いました。私はなんだか怖くなってきた。槍須先輩のことも、イツロー先輩のことも。信じていたものが崩れ虚空に放り出されたような、そんな気持ちになったのです。
 どこかに連れ出されるくらいなら、まだ人の多いさっきの席がいい。そう思った私は宴席に戻ろうとしました。でも腕を強く握って離してくれない槍須先輩に引きずられるまま、私は店の外に連れ出されてしまった。具体的なことは何も言わず、槍須先輩はただ、もっと楽しいとこに連れてってやるとだけ繰り返して私の手を引いていきます。考えてみれば、男の人と手を繋いで歩くのもそのときが初めてでした。


 お店から少し離れた小さな交差点で、槍須先輩はタクシーを拾いました。恐くなっていた私は、もう帰りますと懇願したのですが、笑ってばかりで取り合おうとしてくれません。ドアが開き先に乗るよう促されて背中を押されました。押し込まれるように車内に入るとき、遠くから私の名を呼ぶ声が聞こえました。イツロー先輩の声です。戻ってきたんだ。私は気持ちが軽くなるのがわかりました。これで大丈夫。槍須先輩にだって聞こえてるはず。

 けれどもそんな希望なんて、あっさりと押し潰されます。槍須先輩は、イツロー先輩の呼び掛けなどお構いなし。車から出ようともがく私をさらに奥に押し込んで座席につくと、慣れた口調で知らない街の名前を運転手さんに告げるのです。後ろの窓には走ってくる人影が見えます。でも、まだ遠い。私は声を上げました。

「困ります。私、降ります、運転手さん」

 どうしますかと聞く運転手さんに向かって槍須先輩は、いいから行っちゃって、と事も無さげに指示しました。この子はいつもこうだから、とも。その言葉の奥に潜む悪意に、頭を殴られた気がしました。
 私、この人と今日初めて遭ったんです。走り出す車の後部座席でそう訴えようとしました。けれど声は出せなかった。口を、唇を唇で塞がれてしまったから。声を上げようと開き気味だった唇の内側に大きななめくじのようなものが無理やり入ってきて、にちゃにちゃと動き回りました。舌が吸われ、歯茎を舐められる。いつの間にか走り出していたタクシーの車内で延々と続けられる私のファーストキス。気持ち悪い。でも鋭い快感が走る瞬間もあるのです。
 一分? 五分?
 その深いキスが続くうちに、頭の後ろに稲妻のように奔る快感の回数と時間が増えてゆきます。そして、それとともに私の躰から抵抗する力が喪われていくのです。その発見が恐ろしかった。私は私に慄いたのです。


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 本当に挨拶だけのつもりでした。だって私の心は、早くイツロー先輩の下に戻って、先輩を安心させたい気持ちでいっぱいでしたから。
 ふたりでゆっくりと愛を育んでいく。最初のデートで手をつなぎ、最初のキスは夏の終わりの砂浜で。先に卒業する先輩が安心できる仕事を携えて、私の卒業式の日に迎えに来る。そうして私たちは心身ともに結ばれるの。そんなところまで一気に、そのときの私は夢想していたのです。でも結局、イツロー先輩の下に戻ることはできませんでした。
「いいねぇ弥生ちゃんのお洋服、シンプルで。なんかカリ城のクラリスみたいじゃん」
 自己紹介のあと、槍須先輩が私のコーディネートを褒めてくれました。気づいてもらえたのは嬉しいけど、どうせならイツロー先輩に言って欲しかった。そう思って視線を向けたけど、イツロー先輩は向こう側の席の人と喋っていて、こちらを向いてはいませんでした。
 未成年だからとお断りしていたのですが、同級生のゆかりんが飲まされているのに、私だけがお酒を飲まないわけにはいきません。一杯が二杯に、二杯が三杯にと重ねられ、気が付いたらゆかりんがいなくなっていました。周りの先輩方のお話によると、酔って気分が悪くなったので手の空いてる二年生に介抱してもらってるんだとか。
「ゆかりんちゃんはさぁ、もう戻ってこないよ。たぶんあのままホテルにでも連れてかれちゃうんじゃないのかな。ほら、さっきまであそこに座ってた奴もいないだろ」
 槍須先輩が指差した空席は私の最初の席の隣、イツロー先輩の席でした。向かいの空席を見ると、ゆかりんの荷物も消えています。
「まったくしょうがないよな。いたいけな新入生を酔いにかこつけて手籠めにしちゃうなんてな。ホント、男の風上にも置けない」
 槍須先輩はそう非難しながら笑っていました。でも私の耳にはそれが軽口には聞こえませんでした。初めてのお酒で酔っていたのでしょう。イツロー先輩を信じている本来の私であれば、そんな戯言は一蹴したはず。でもそのときはほんの小さな疑惑が何十倍にも大きくなって私の心を黒く覆っていました。私のことを好きだと言っていたのに裏切られた。そう思ってしまったのです。その所為でしょうか。すぐそのあとに、外で呑み直すぞ、と言う槍須先輩の誘いにも強く抗うこともなく立ち上がってしまいました。
 お店の下駄箱で靴を履き替えるとき、うしろで槍須先輩が雑談をしていました。相手の上級生は、薄笑いを浮かべながら何か言っています。少し気持ち悪い笑い方だったので印象に残りました。
「ゆかりんちゃんは二年の田中がタクシーで送ってったってさ。まぁ行き先はご自宅じゃないかもしれないけど」
 槍須先輩も同じ顔をして笑いました。私はなんだか怖くなってきた。槍須先輩のことも、イツロー先輩のことも。信じていたものが崩れ虚空に放り出されたような、そんな気持ちになったのです。
 どこかに連れ出されるくらいなら、まだ人の多いさっきの席がいい。そう思った私は宴席に戻ろうとしました。でも腕を強く握って離してくれない槍須先輩に引きずられるまま、私は店の外に連れ出されてしまった。具体的なことは何も言わず、槍須先輩はただ、もっと楽しいとこに連れてってやるとだけ繰り返して私の手を引いていきます。考えてみれば、男の人と手を繋いで歩くのもそのときが初めてでした。
 お店から少し離れた小さな交差点で、槍須先輩はタクシーを拾いました。恐くなっていた私は、もう帰りますと懇願したのですが、笑ってばかりで取り合おうとしてくれません。ドアが開き先に乗るよう促されて背中を押されました。押し込まれるように車内に入るとき、遠くから私の名を呼ぶ声が聞こえました。イツロー先輩の声です。戻ってきたんだ。私は気持ちが軽くなるのがわかりました。これで大丈夫。槍須先輩にだって聞こえてるはず。
 けれどもそんな希望なんて、あっさりと押し潰されます。槍須先輩は、イツロー先輩の呼び掛けなどお構いなし。車から出ようともがく私をさらに奥に押し込んで座席につくと、慣れた口調で知らない街の名前を運転手さんに告げるのです。後ろの窓には走ってくる人影が見えます。でも、まだ遠い。私は声を上げました。
「困ります。私、降ります、運転手さん」
 どうしますかと聞く運転手さんに向かって槍須先輩は、いいから行っちゃって、と事も無さげに指示しました。この子はいつもこうだから、とも。その言葉の奥に潜む悪意に、頭を殴られた気がしました。
 私、この人と今日初めて遭ったんです。走り出す車の後部座席でそう訴えようとしました。けれど声は出せなかった。口を、唇を唇で塞がれてしまったから。声を上げようと開き気味だった唇の内側に大きななめくじのようなものが無理やり入ってきて、にちゃにちゃと動き回りました。舌が吸われ、歯茎を舐められる。いつの間にか走り出していたタクシーの車内で延々と続けられる私のファーストキス。気持ち悪い。でも鋭い快感が走る瞬間もあるのです。
 一分? 五分?
 その深いキスが続くうちに、頭の後ろに稲妻のように奔る快感の回数と時間が増えてゆきます。そして、それとともに私の躰から抵抗する力が喪われていくのです。その発見が恐ろしかった。私は私に慄いたのです。