五話 こちらエレベーター前です。先輩、聞こえてますか?
ー/ー 夜九時前。
舘坂橋の袂に建つ女性専用賃貸マンション「アマゾネス舘坂」の正門前に逸郎と由香里は佇んでいた。逸郎の手には膨れ上がったコンビニ袋。中にはオレンジジュースとウーロン茶の二リットルボトル、ポテチにチョコ菓子にビーフジャーキー、そして紛れ込ませるように入れたレモンハイのロング缶二本。重いぞ、と言いながら逸郎は由香里にコンビニ袋を手渡した。
「うはー。これはマジで重いですね。こんなのをか細い乙女の腕に託そうというのですか。鬼ですね先輩は。台車とかは用意して無いんですか」
「しょうがないだろ、ここは女子しか入れないんだから」
台車のくだりは無視して応える逸郎。この数時間で由香里との間合いに慣れてきたようだ。
帰宅を取りやめ、逸郎はバイト先に今夜の休みを、由香里は自宅に友だちの部屋で夜通し女子会する旨をそれぞれ連絡し、駅のドトールで作戦会議を開いたのが二時間前。襲撃は由香里ひとり、時間は弥生のマンションの門限二十一時のちょっと前。いちおう部屋の明かりは外からチェックするが、消えていても作戦は決行。不在の場合に二十一時までに戻ってこられる余裕だけは持っておく。
「てことはですよ。もしもまーやが部屋に居てくれなかったら、今夜あたしは先輩の高松御殿でお泊りってことですか? ゆかりん、貞操の危機、ですか!?」
「んなこたぁしないよ。なんなら俺が誰か友だちの家に身を寄せてもいいし」
「聞き捨てならないですね。先輩いつもぼっちじゃないですか。シンスケさんの他に友だちいるんですか? あ、でも肝心の頼みの綱は寮住まいですし」
「うるさいな。俺にだっていきなりでも泊めてくれる友だちのひとりやふたりぐらいはいるよ。……たぶん」
「あやしいですねぇ。まあいいでしょう。先輩の部屋には興味深そうな本棚があるようですし。それに、鋼鉄の処女ゆかりんからすればイツロー先輩など物の数ではありませんからね」
自分で処女とか言ってるし。
「そんなことよりなんか面白い話をしてくださいよ。計画遂行までまだあと二時間近くあるんですから。あとアイスティーのおかわりとジャーマンドッグも」
エージェントに機嫌を損ねられては台無しだ。気づかれないよう嘆息しながらも、逸郎は注文の品を買いに席を立つ。
由香里には年の離れた兄がいるらしい。彼女の偏った知識の源泉は、主にその兄の影響によるもののようだ。とにかく由香里の兄貴ネタは止まることが無く、しかも容赦ない。逸郎はほんの小一時間でまだ見ぬ由香里の兄、原町田吾朗の乗ってるバイク、本の趣味、好きなゲーム、好きな音楽、行きつけの店、さらには好みの女性のタイプまで知ることとなった。
反面、由香里は自分語りをしない。家族のことはあれだけ事細かに喋るのに、自分のこととなると、不自然にならないよう気をつけながら注意深く避けている。その代わり、自分を形作る周囲の外枠について大いに語り、それをもって自らの輪郭を視覚的イメージで提供するのである。もしも興味を持つものが彼女を深く知ろうと試みるなら、能動的に踏み込む必要がある。そしてその門戸をノックする者が現れたら必要な分だけ内側に向けて開けてあげられるよう準備している。そんなスタイルなのだ。これほどまでに相手の自主性を重んじるコミュニケーションをいったいどうやって身につけたのか。由香里の過去にいったい何があったのか。そんなことを知りたい、と逸郎は少しだけ思った。
「ま、今じゃないけどね」
「なにが今じゃないんですか? わたしなんかそう返されるような話してましたか」
「あ、いや、ちょっと別のこと考えてた。すまんすまん」
水を差された由香里は大いに憤慨していた。
「ホントに失礼ですね、イツロー先輩は。上の空オトコは信用が置けないから一様にモテませんね。そんなんじゃ大事なまーやは預けられませんよ。ぷんすか」
擬音まで口にする奴ははじめてみた。
「このZOOMってアプリは、まだ日本語版は無いんだけど、向こうではけっこう話題になってるらしくって。まぁ言ってみればTV会議だ」
逸郎は由香里に持たせるスパイツールの使用説明をしていた。
弥生の様子をあとで由香里に聞くという手はもちろんあるが、できればノイズの入らない一次情報としての弥生の言葉を聞いておきたい。場合によってはリアルタイムでの参戦も辞さない。その逸郎の意見を由香里は否定しなかった。これは非常事態ですからね、という注釈をつけてはきたものの。
ZOOMを立ち上げた由香里のスマートフォンをテーブルに置いて女子会を開き、その実況を逸郎が遠方から聴く。
「画像は送りませんからね。あくまでも音声だけです。神聖なる乙女の部屋の出歯亀に加担することは、断じてできませんから」
これはもう絶対です、と念押しまでしてきた。
「それでは行って参ります」
荷物を逸郎に預けて大仰な深呼吸を二度三度した由香里は、再び荷物を下げて建物に入っていった。時刻は午後八時五十五分。
「今エレベーター前です。イツロー先輩、聞こえてますか?」
「バッチリだ。感度良好。そのままやってくれ。この会話の後はこっちのマイクを切るけど、九時十五分まではこの辺に待機してるから、もしも部屋に入れなかったらそう言ってくれ」
「了解です。では、ボン・ボヤージュ」
逸郎もボン・ボヤージュと返し、アプリのマイクボタンをオフにした。
舘坂橋の袂に建つ女性専用賃貸マンション「アマゾネス舘坂」の正門前に逸郎と由香里は佇んでいた。逸郎の手には膨れ上がったコンビニ袋。中にはオレンジジュースとウーロン茶の二リットルボトル、ポテチにチョコ菓子にビーフジャーキー、そして紛れ込ませるように入れたレモンハイのロング缶二本。重いぞ、と言いながら逸郎は由香里にコンビニ袋を手渡した。
「うはー。これはマジで重いですね。こんなのをか細い乙女の腕に託そうというのですか。鬼ですね先輩は。台車とかは用意して無いんですか」
「しょうがないだろ、ここは女子しか入れないんだから」
台車のくだりは無視して応える逸郎。この数時間で由香里との間合いに慣れてきたようだ。
帰宅を取りやめ、逸郎はバイト先に今夜の休みを、由香里は自宅に友だちの部屋で夜通し女子会する旨をそれぞれ連絡し、駅のドトールで作戦会議を開いたのが二時間前。襲撃は由香里ひとり、時間は弥生のマンションの門限二十一時のちょっと前。いちおう部屋の明かりは外からチェックするが、消えていても作戦は決行。不在の場合に二十一時までに戻ってこられる余裕だけは持っておく。
「てことはですよ。もしもまーやが部屋に居てくれなかったら、今夜あたしは先輩の高松御殿でお泊りってことですか? ゆかりん、貞操の危機、ですか!?」
「んなこたぁしないよ。なんなら俺が誰か友だちの家に身を寄せてもいいし」
「聞き捨てならないですね。先輩いつもぼっちじゃないですか。シンスケさんの他に友だちいるんですか? あ、でも肝心の頼みの綱は寮住まいですし」
「うるさいな。俺にだっていきなりでも泊めてくれる友だちのひとりやふたりぐらいはいるよ。……たぶん」
「あやしいですねぇ。まあいいでしょう。先輩の部屋には興味深そうな本棚があるようですし。それに、鋼鉄の処女ゆかりんからすればイツロー先輩など物の数ではありませんからね」
自分で処女とか言ってるし。
「そんなことよりなんか面白い話をしてくださいよ。計画遂行までまだあと二時間近くあるんですから。あとアイスティーのおかわりとジャーマンドッグも」
エージェントに機嫌を損ねられては台無しだ。気づかれないよう嘆息しながらも、逸郎は注文の品を買いに席を立つ。
由香里には年の離れた兄がいるらしい。彼女の偏った知識の源泉は、主にその兄の影響によるもののようだ。とにかく由香里の兄貴ネタは止まることが無く、しかも容赦ない。逸郎はほんの小一時間でまだ見ぬ由香里の兄、原町田吾朗の乗ってるバイク、本の趣味、好きなゲーム、好きな音楽、行きつけの店、さらには好みの女性のタイプまで知ることとなった。
反面、由香里は自分語りをしない。家族のことはあれだけ事細かに喋るのに、自分のこととなると、不自然にならないよう気をつけながら注意深く避けている。その代わり、自分を形作る周囲の外枠について大いに語り、それをもって自らの輪郭を視覚的イメージで提供するのである。もしも興味を持つものが彼女を深く知ろうと試みるなら、能動的に踏み込む必要がある。そしてその門戸をノックする者が現れたら必要な分だけ内側に向けて開けてあげられるよう準備している。そんなスタイルなのだ。これほどまでに相手の自主性を重んじるコミュニケーションをいったいどうやって身につけたのか。由香里の過去にいったい何があったのか。そんなことを知りたい、と逸郎は少しだけ思った。
「ま、今じゃないけどね」
「なにが今じゃないんですか? わたしなんかそう返されるような話してましたか」
「あ、いや、ちょっと別のこと考えてた。すまんすまん」
水を差された由香里は大いに憤慨していた。
「ホントに失礼ですね、イツロー先輩は。上の空オトコは信用が置けないから一様にモテませんね。そんなんじゃ大事なまーやは預けられませんよ。ぷんすか」
擬音まで口にする奴ははじめてみた。
「このZOOMってアプリは、まだ日本語版は無いんだけど、向こうではけっこう話題になってるらしくって。まぁ言ってみればTV会議だ」
逸郎は由香里に持たせるスパイツールの使用説明をしていた。
弥生の様子をあとで由香里に聞くという手はもちろんあるが、できればノイズの入らない一次情報としての弥生の言葉を聞いておきたい。場合によってはリアルタイムでの参戦も辞さない。その逸郎の意見を由香里は否定しなかった。これは非常事態ですからね、という注釈をつけてはきたものの。
ZOOMを立ち上げた由香里のスマートフォンをテーブルに置いて女子会を開き、その実況を逸郎が遠方から聴く。
「画像は送りませんからね。あくまでも音声だけです。神聖なる乙女の部屋の出歯亀に加担することは、断じてできませんから」
これはもう絶対です、と念押しまでしてきた。
「それでは行って参ります」
荷物を逸郎に預けて大仰な深呼吸を二度三度した由香里は、再び荷物を下げて建物に入っていった。時刻は午後八時五十五分。
「今エレベーター前です。イツロー先輩、聞こえてますか?」
「バッチリだ。感度良好。そのままやってくれ。この会話の後はこっちのマイクを切るけど、九時十五分まではこの辺に待機してるから、もしも部屋に入れなかったらそう言ってくれ」
「了解です。では、ボン・ボヤージュ」
逸郎もボン・ボヤージュと返し、アプリのマイクボタンをオフにした。
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夜九時前。
舘坂橋《たてさかばし》の袂に建つ女性専用賃貸マンション「アマゾネス舘坂《たてさか》」の正門前に逸郎と由香里は佇んでいた。逸郎の手には膨れ上がったコンビニ袋。中にはオレンジジュースとウーロン茶の二リットルボトル、ポテチにチョコ菓子にビーフジャーキー、そして紛れ込ませるように入れたレモンハイのロング缶二本。重いぞ、と言いながら逸郎は由香里にコンビニ袋を手渡した。
舘坂橋《たてさかばし》の袂に建つ女性専用賃貸マンション「アマゾネス舘坂《たてさか》」の正門前に逸郎と由香里は佇んでいた。逸郎の手には膨れ上がったコンビニ袋。中にはオレンジジュースとウーロン茶の二リットルボトル、ポテチにチョコ菓子にビーフジャーキー、そして紛れ込ませるように入れたレモンハイのロング缶二本。重いぞ、と言いながら逸郎は由香里にコンビニ袋を手渡した。
「うはー。これはマジで重いですね。こんなのをか細い乙女の腕に託そうというのですか。鬼ですね先輩は。台車とかは用意して無いんですか」
「しょうがないだろ、ここは女子しか入れないんだから」
台車のくだりは無視して応える逸郎。この数時間で由香里との間合いに慣れてきたようだ。
帰宅を取りやめ、逸郎はバイト先に今夜の休みを、由香里は自宅に友だちの部屋で夜通し女子会する旨をそれぞれ連絡し、駅のドトールで作戦会議を開いたのが二時間前。襲撃は由香里ひとり、時間は弥生のマンションの門限二十一時のちょっと前。いちおう部屋の明かりは外からチェックするが、消えていても作戦は決行。不在の場合に二十一時までに戻ってこられる余裕だけは持っておく。
「てことはですよ。もしもまーやが部屋に居てくれなかったら、今夜あたしは先輩の高松御殿でお泊りってことですか? ゆかりん、貞操の危機、ですか!?」
「んなこたぁしないよ。なんなら俺が誰か友だちの家に身を寄せてもいいし」
「聞き捨てならないですね。先輩いつもぼっちじゃないですか。シンスケさんの他に友だちいるんですか? あ、でも肝心の頼みの綱は寮住まいですし」
「うるさいな。俺にだっていきなりでも泊めてくれる友だちのひとりやふたりぐらいはいるよ。……たぶん」
「あやしいですねぇ。まあいいでしょう。先輩の部屋には興味深そうな本棚があるようですし。それに、鋼鉄の処女ゆかりんからすればイツロー先輩など物の数ではありませんからね」
自分で処女とか言ってるし。
「そんなことよりなんか面白い話をしてくださいよ。計画遂行までまだあと二時間近くあるんですから。あとアイスティーのおかわりとジャーマンドッグも」
エージェントに機嫌を損ねられては台無しだ。気づかれないよう嘆息しながらも、逸郎は注文の品を買いに席を立つ。
由香里には年の離れた兄がいるらしい。彼女の偏った知識の源泉は、主にその兄の影響によるもののようだ。とにかく由香里の兄貴ネタは止まることが無く、しかも容赦ない。逸郎はほんの小一時間でまだ見ぬ由香里の兄、原町田吾朗の乗ってるバイク、本の趣味、好きなゲーム、好きな音楽、行きつけの店、さらには好みの女性のタイプまで知ることとなった。
反面、由香里は自分語りをしない。家族のことはあれだけ事細かに喋るのに、自分のこととなると、不自然にならないよう気をつけながら注意深く避けている。その代わり、自分を形作る周囲の外枠について大いに語り、それをもって自らの輪郭を視覚的イメージで提供するのである。もしも興味を持つものが彼女を深く知ろうと試みるなら、能動的に踏み込む必要がある。そしてその門戸をノックする者が現れたら必要な分だけ内側に向けて開けてあげられるよう準備している。そんなスタイルなのだ。これほどまでに相手の自主性を重んじるコミュニケーションをいったいどうやって身につけたのか。由香里の過去にいったい何があったのか。そんなことを知りたい、と逸郎は少しだけ思った。
反面、由香里は自分語りをしない。家族のことはあれだけ事細かに喋るのに、自分のこととなると、不自然にならないよう気をつけながら注意深く避けている。その代わり、自分を形作る周囲の外枠について大いに語り、それをもって自らの輪郭を視覚的イメージで提供するのである。もしも興味を持つものが彼女を深く知ろうと試みるなら、能動的に踏み込む必要がある。そしてその門戸をノックする者が現れたら必要な分だけ内側に向けて開けてあげられるよう準備している。そんなスタイルなのだ。これほどまでに相手の自主性を重んじるコミュニケーションをいったいどうやって身につけたのか。由香里の過去にいったい何があったのか。そんなことを知りたい、と逸郎は少しだけ思った。
「ま、今じゃないけどね」
「なにが今じゃないんですか? わたしなんかそう返されるような話してましたか」
「あ、いや、ちょっと別のこと考えてた。すまんすまん」
水を差された由香里は大いに憤慨していた。
「ホントに失礼ですね、イツロー先輩は。上の空オトコは信用が置けないから一様にモテませんね。そんなんじゃ大事なまーやは預けられませんよ。ぷんすか」
擬音まで口にする奴ははじめてみた。
「このZOOMってアプリは、まだ日本語版は無いんだけど、向こうではけっこう話題になってるらしくって。まぁ言ってみればTV会議だ」
逸郎は由香里に持たせるスパイツールの使用説明をしていた。
弥生の様子をあとで由香里に聞くという手はもちろんあるが、できればノイズの入らない一次情報としての弥生の言葉を聞いておきたい。場合によってはリアルタイムでの参戦も辞さない。その逸郎の意見を由香里は否定しなかった。これは非常事態ですからね、という注釈をつけてはきたものの。
ZOOMを立ち上げた由香里のスマートフォンをテーブルに置いて女子会を開き、その実況を逸郎が遠方から聴く。
弥生の様子をあとで由香里に聞くという手はもちろんあるが、できればノイズの入らない一次情報としての弥生の言葉を聞いておきたい。場合によってはリアルタイムでの参戦も辞さない。その逸郎の意見を由香里は否定しなかった。これは非常事態ですからね、という注釈をつけてはきたものの。
ZOOMを立ち上げた由香里のスマートフォンをテーブルに置いて女子会を開き、その実況を逸郎が遠方から聴く。
「画像は送りませんからね。あくまでも音声だけです。神聖なる乙女の部屋の出歯亀に加担することは、断じてできませんから」
これはもう絶対です、と念押しまでしてきた。
「それでは行って参ります」
荷物を逸郎に預けて大仰な深呼吸を二度三度した由香里は、再び荷物を下げて建物に入っていった。時刻は午後八時五十五分。
「今エレベーター前です。イツロー先輩、聞こえてますか?」
「バッチリだ。感度良好。そのままやってくれ。この会話の後はこっちのマイクを切るけど、九時十五分まではこの辺に待機してるから、もしも部屋に入れなかったらそう言ってくれ」
「了解です。では、ボン・ボヤージュ」
逸郎もボン・ボヤージュと返し、アプリのマイクボタンをオフにした。